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宝塚のトリビア・豆知識、雑学

レビュー

 広辞苑では「踊りと歌とを中心にコントを組み合わせ、多彩な演出と豪華な装置とを伴うショー。パリで、毎年12月に1年間の出来事を急激に場面を転換させながら風刺的に演じた1種の喜劇。第1次大戦争後各国に流行」とあります。1927年。宝塚少女歌劇ではレビューをこう説明しています。「音楽を基盤に、歌、ダンス、ドラマなどあらゆる要素をふくみ、近代人のセンスと欲求から生まれた、急速なテンポと自由性を持つ新形式の音楽劇」  宝塚歌劇はこれを原点に、今、ミュージカルやショーを制作しています。

宝塚市

 1954年4月1日、武庫川左岸の「宝塚町」と右岸の「良元村」が合併して「宝塚市」が発足しました。1955年には「長尾村」と「西谷村」が編入。
当時の人口は4万人の田園風景が広がるのどかな町で、温泉街には情緒がただよっていました。歌劇や温泉を中心に華やかな文化が栄えるなかで、昭和40年代には人口が15万人と急増して町は発展のピークを迎えました。その後も、公共施設や商業施設などが建設され町は成熟しました。災害や時代の波のさまざまな困難をくぐり抜け「宝塚市」は今年60年を迎えました。現在の人口は約23万人です。

清く正しく美しく

 大正9年(1920年)、3度目の東京公演。午前8時・大阪駅発・午後8時30分東京駅着。この上京の際に小林一三先生が生徒の皆に渡された「旅行中の心得」。
「いくら喉が渇いても、水を飲むべからず。知らぬ土地で飲み慣れぬ水を飲むと下痢または病気になるべし。病気になる人が一人できると全体が困る結果になるゆえ、養生を大切にすべし。少しでも心持ちが悪いと思ったならば、その時は遠慮せずに直ちに監督または理事長にお話しして、医師の診断を受けるようにすべし。よごれやすきものは、洗濯にまわすことにして、身の回りは常に、小綺麗、清潔に保つべし。高声高笑、ふしだら、不行儀はつつしむべし。荷物は自分で持ちゆくものは小さい信玄袋のような小荷物だけにして、その他は、各組に行李を用意するゆえ、荷物係りに預けるべし。行李に預ける荷物は風呂敷が一番便利なるべし。幹事の許可なくして、自由行動をせぬこと。常に時間は守るべし。」

芸名

 現在の宝塚歌劇団での芸名は、宝塚音楽学校本科生の夏頃に考えて学校に提出をし許可が出れば使えます。
許可がおりない場合は、また新たに考えるのです。
昔は、百人一首から採るのが正式な芸名とされていました。生徒の芸名を初めに、百人一首から採ることを着想したのは安城勝義さんです。この方は、大正の初めに箕面有馬電軌の温泉主任をされていました。初公演からまもなく赤字で廃止論が出たとき「私財を投じても存続させる」と力を込め主張されたそうです。
まさに宝塚少女歌劇の救世主と言うべき方です。
そして、生徒数は増えて大正10年に花組と月組に分かれ、大正13年には雪組ができました。百人一首の同じ歌からいくつかの芸名を採るようにしても種切れになるのでした。
戦時中、強制的に改名をさせられる生徒がいました。「神」「宮」「みかど」とか宮家の名を名のるのは禁止と言う理由です。例えば、神代錦さんは「嘉美代錦」と改め、秩父晴世さんは「秩夫晴世」と改めました。お二人とも戦後にもとの芸名に戻りました。

宝塚少女歌劇初公演

 大正2年7月「宝塚唱歌隊」は16名の生徒を採用、12月には4名を加え「宝塚少女歌劇養成所」と改称しました。
唱歌だけではなくオペラなども見せてはと言う、音楽家安藤弘ご夫妻の提案を採用したからです。
指導に音楽の高木和夫、作家の久松一聲らを加えて稽古を積み、大正3年(1914年)4月1日、プールを改造した歌劇場(通称・パラダイス劇場)で、歴史的な宝塚少女歌劇公演の幕を開けました。千秋楽は5月30日。
初公演は、大阪毎日新聞社後援の婚礼博覧会のアトラクションとしての公演だったのです。
第1回公演プログラム
1.管絃合奏(「君が代」「タンホイザーマーチ」など9曲)
2.唱歌(「小守歌」「オルフォイスの一節」など10曲)
3.舞踏(「胡蝶」など8曲)
4.歌劇「ドンブラコ」5場。北村季晴作。 桃太郎・高峰妙子 犬・八十島楫子 雉・由良道子 猿・雲井浪子 
5.歌劇「歌遊び浮き達磨」本居長世作。大達磨・仲谷日出夫  小達磨・雲井浪子、由良道子、小倉みゆき
(大達磨の仲谷さんは裏方の男性です。大きな張りぼてを被って出演されました。)
この年の12月、 宝塚少女歌劇「帝国座慈善歌劇会」。この時が最初の有料上演となりました。

緑の袴

 今でもお正月や儀式の時などには、黒紋付きに緑の袴姿のタカラジェンヌのゆきかう情景が見られます。
「青い袴とともに誰でもみなしってる〜」と歌われています。この青い袴の色は正式には、オリーブ色と言われる青みかかった緑です。
大正の初め宝塚少女歌劇団が発足した当時の生徒たちは、和服に袴で通学をしていました。その袴はエビ茶色、水色、青色と様々でしたが、大正10年、高砂松子さんと滝川末子さんが心斎橋(大阪)で買ってはいていた緑の袴が小林一三先生の目にとまり、気に入られて緑一色に統一されました。又、公的な儀式にでる場合は派手な着物を競い合うのをやめて、申し合わせて黒紋付きを着るようになりました。袴をはく要領が宝塚にはあります。袴と白足袋の間に足首を少しのぞかせるよう短めにはき、帯の結び目を袴の腰板をのせるようにして、ぐっと締め上げるのが良いとされています。
なお、歌劇団の新年年賀式(拝賀式)は、大正11年に始まりました。

新人公演

 歌劇団では下級生の新人たちに勉強の機会を与えるために、昭和33年8月から本公演の演目を代役もしくは新人たちで上演する新人公演を月1回開催し、昭和43年6月からは宝塚大劇場だけではなく東京でも毎公演必ず1〜2回行われてきました。
真っ先にこの新人公演で力をつけたのは明石照子さんの役をつとめた真帆志ぶきさんです。
新進の下級生がけんめいに演じる姿に、客席からの温かい拍手が送られ、それが明日の宝塚を築く活力ともなっています。

さよなら公演

 昭和37年の明石照子さん、昭和38年の寿美花代さんの退団の頃から、大スターの公演では特別の催しが行われるようになりました。大劇場と東京公演の千秋楽の日(場合により前日を含む)に一般公演に続いて、そのスターの思い出の名場面を再演する「さよならショー」が追加されるようになりました。昭和42年の内重のぼるさん、昭和43年の那智わたるさんの最後の日には、別れを惜しむファンの泣き声が劇場にこだましました。
大スターに限らず生徒は、最後の公演の千秋楽フィナーレに、紋付き袴姿でお客様に「お別れの挨拶」をするのが慣例となりました。

武庫川と六甲山

 音楽学校校歌「希望は清し武庫の川、流れはつきじ永遠(とこしえ)に・・・」と歌われている武庫川は、摂津丹後より国境を源に発し、渓谷をうながちながら宝塚で山地を離れます。白い花崗岩の河原をつくりながら大阪湾に注ぐ、長さ54キロメートルの川です。
大劇場の側に、昭和39年日本で初めての観光ダムが造られ、そのダムに堰き止められた水面は宝塚レークと名付けられました。
武庫川を挟んで、大劇場の対岸一帯と、その上流の宝来橋の両岸あたりが「宝塚温泉街」でした。
 校歌「白雲なびく六甲の、松の緑に・・・」の六甲山は、宝塚から遠く神戸の須磨まで連なる最高峰は932メートルの「六甲連山」のことです。大正7年に天津乙女さんが初めて東京から宝塚に来られた時「山が近いのでこわい」とおっしゃったそうです。

戦争の風

 宝塚歌劇団は本拠地宝塚大劇場共に空襲を免れ、生徒で直接戦火を浴びた人は少なかったのがせめてもの幸いでした。
しかし、卒業生では昭和20年7月24日に三重県津市の空襲で亡くなられた糸井しだれさんがおられます。
8月6日、疎開先の広島の原爆で被爆され亡くなられた園井惠子さんは、ニュースでひろく知られています。
もう1ヶ月早く終戦が実現していたら、と口惜しい限りです。
昭和20年3月10日の東京大空襲で、現役生ではただ一人、清美好子さんが亡くなられています。
盲腸で入院していて間もなく退院と言う時に大空襲に遭遇し、明治座に避難して直撃弾をうけました。
ご自宅は焼け残ったそうです。

花之みち

 現在は「花のみち」と書かれていますが、正式には「花之みち」です。
阪急宝塚駅から400メートルの「花之みち」は、中央部が1段高くなり、昔は300本のさくら、20本の松・あおき、そして楓・夾竹桃・梅・400株の山吹が植えられて、四季折々に行楽客を楽しませていました。
中央ゲートの前に小林一三翁の胸像がありますが、これは昭和32年10月に完成をしたのです。
花之みちがここで途切れているのは、戦後に接収していた海軍航空隊と、戦後に進駐してきたアメリカ軍が物資輸送のために切り開いたのです。元々、武庫川の古堤防で国有地として阪急電鉄が管理していました。この道に沿ってファミリーランド・温泉・立体動物園・歌劇団事務所・稽古場があり、お土産屋やブロマイド店なども軒を並べていました。現在、花之みちにはベンチなども作られ、生徒を待つファンの憩いの場所となっています。